「もう少し待てば、納得して帰ってくれるかもしれない」——そう考えて説明や説得を続けるうちに、対応がなかなか終わらない。
現場のスタッフから事務長など役職者へと担当が代わっても、状況が変わらないまま時間だけが過ぎていく。そんなお話を伺うことがあります。
相手は具合が悪くて来院された患者様です。警察を呼ぶという発想自体に、抵抗を感じるスタッフは少なくありません。
「まだ話せば分かってもらえるかもしれない」という誠実さが、かえって対応を長引かせ、他の患者様への対応や、スタッフ自身の疲弊につながってしまうことがあります。
本記事は、社会保険労務士の立場から、労務管理・組織運営の観点で公表されている行政資料等をもとに一般的な考え方を整理したものです。個別の事案が犯罪に該当するかどうかの最終判断は、警察・弁護士等の専門家にご確認ください。
「居座り」は、実は刑法上の犯罪行為に当たりうる
不退去罪(刑法130条後段)
- 適法に立ち入った人が、退去の要求を受けたにもかかわらず、その場所から退去しなかった場合に成立します。
- 法定刑は3年以下の懲役または10万円以下の罰金です。
- 成立には「退去の要求」が明確に伝わっていることが要件になります。
威力業務妨害罪(刑法234条)
- 怒鳴る、居座るといった「威力」を用いて、人の業務を妨害した場合に成立します。
- 「居座り」により、他の患者様への対応やスタッフの通常業務が事実上できなくなっている状態であれば、この業務妨害に当たり得ます。
- 法定刑は3年以下の懲役または50万円以下の罰金です。
- なお、嘘の風説を流すなど「欺く」方法で業務を妨害した場合は、これとは別の**偽計業務妨害罪(刑法233条)**に当たります。居座りの場面で問題になるのは、基本的に威力業務妨害罪の方です。
※以下は一般的な考え方の整理です
「明確な退去要求」を伝えることが最初の一歩
不退去罪の成立には、「要求を受けたにもかかわらず退去しなかった」という事実が必要です。
つまり、現場が曖昧な態度のままでは、この要件を満たせません。
必要な説明を尽くしたうえで、「お帰りください」「お引き取りください」と、はっきりした言葉で退去を求めることが重要です。
遠慮がちな言い回しでは、後になって「要求されたと認識していなかった」と主張される余地を残してしまいます。
説得から通報までの実務ステップ
現場が最も迷うのは、「どこまで説得を続け、どこで通報に切り替えるか」という線引きです。
ここで有効なのは、時間そのものを基準にすることではなく、やり取りの中身を基準にすることです。
必要な説明を一通り終えた後、同じ要求や同じ話が繰り返される段階に入ったら、それ以上の説得には実質的な意味がないと判断できます。
その時点を「区切り」として、組織があらかじめ目安を定めておくことで、現場のスタッフが一人で「まだ続けるべきか」を悩まずに済みます。
110番通報の基準と、通報をためらわないための院内合意形成
退去要求を伝えても応じない場合は、迷わず110番通報する、という方針を組織としてあらかじめ共有しておくことが重要です。
- 診療時間内は、担当部署に連絡し、保安員等を含む複数の職員が駆けつけたうえで通報する
- 診療時間外は、当直の保安員等に連絡し、複数人で対応したうえで通報する
- 実力行使で無理やり退去させる、いわゆる「自力救済」は法律で禁止されているため、行わない
「患者様相手に警察を呼ぶのは大げさではないか」という迷いは、現場に自然に生まれる感情です。
だからこそ、通報の判断を現場の個人に委ねず、組織としてあらかじめ「この基準に達したら通報する」という方針を明文化しておくことが、スタッフの心理的な負担を軽くします。
また、この問題は刑事罰の有無だけの話ではありません。
理不尽な要求に長時間さらされ続けることは、スタッフの心身に大きな負荷をかけます。
医療・介護分野は、精神障害等による労災請求件数が特に多い業種としても知られています。
「どこで区切るか」の基準を組織があらかじめ持っておくことは、目の前の対応を早く終わらせるためだけでなく、スタッフの心身の健康を守るという、安全配慮義務の観点からも重要です。
警察との事前連携体制の作り方
同じ患者・家族による迷惑行為が繰り返される場合は、実際に事件が起きる前の段階から、所轄の警察に相談しておくことも有効です。
事前に事情を共有しておくことで、実際に通報が必要になった際の対応がスムーズになります。
繰り返される迷惑行為に対しては、退去告知書や立入禁止告知書のような書面での対応も選択肢になりますが、これらを交付する際は、必ず事前に顧問弁護士へ経過を共有し、判断を仰ぐことが望まれます。
まとめ
「まだ説得できるはず」という誠実さは、現場にとって自然な感情です。
しかし、その感情に判断を委ねきりにしてしまうと、対応が際限なく長引き、スタッフの疲弊を招きます。組織としてあらかじめ「どこで区切るか」「いつ通報するか」の基準を持っておくことが、現場を守ることにつながります。


